コラム 星座の歴史

あきは薬局

2021年05月10日 18:16

 (4)アラトス

さらに時代が下り紀元前3世紀末になると、ソロイで医師・詩人として活躍したアラトス

(BⅭ315~240)が登場するそうです。彼はこれよりも前の天文学者エウドクソスなどの天文学書を

1154行に韻文化した『ファイノメナ』を書いたようです。その中で、ギリシャからみえる44個の

星座、これは当時知られていたすべての星座であり、その形や出没、星座神話をめぐる長編の

詩。現在知られる星座の多くが含まれ、これが後にラテン語化されローマ文化圏に及んでいく

という、画期的な星座解説書となるようです。


              アラトスが描いたギリシア初期の星座

〈北天19星座〉


おおぐま・こぐま・うしかい・りゅう・ケフェウス・カシオペヤ・アンドロメダ・ペ

ルセウス・・さんかく・ペガスス・いるか・ぎょしゃ・ヘルクレス・こと・はくち

ょう・わし・や・かんむり・へびつかい(へびを含む)


〈黄道13星座〉

 
おひつじ・おうし・ふたご・かに・しし・おとめ・てんびん・さそり・いて・や

ぎ・みずがめ・うお・プレアデス


〈南天12星座〉


オリオン・いぬ・うさぎ・アルゴ・くじら・エリダヌス・みなみのうお・さいだ

ん・みずがめ・うお・ケンタウルス(おおかみを含む)・うみへび・こっぷ・

からす


*へびつかいとへび、ケンタウルスとおおかみを分離させたのは、ヒッ

パルコスやプトレマイオス。プトレマイオスの48星座にあるこうま座には

触れていない。



(5)ヒッパルコス


紀元前2世紀になると、トルコの二ケア生まれのヒッパルコス(bc190~

120)という偉大な天文学者が現れることのようです。彼の功績の第一は、

まず、星の位置を観測し、その位置をカタログ化した「星図」を制作したこと

だと思います。アラトスは、実際にはあまり星を観察していなかったそう

で、アラトスの記録を修正したことで、肉眼で見えるすべての星の位置と

光度を正確に観測し、そのうち1080星を含む星表を制作したようです。

これには49星座が記録されていると思います。



彼が観察し、明るさを分類した方法が、明るい星を1等星として肉眼で

見える最も暗い星を6等星とし、6段階に分けるというもののようです。

つまり、現在もわたしたちが使っている明るさの分類方法を生み出した人

だそうです。現在ではさらに科学的に、1等星と6等星の明るさの差を

100倍とし1等の違いは2,5倍としているそうですが、いずれにしても、

天文学史上に名を残す大天文学者といえると思います。詳しい観測に

よって、星が時代と共にその位置が動いていることにも気づいたようです。


私たちの地球の回転軸の方向が時代と共に変化する「歳差」として知ら

れているそうです。



(6)トレミーの48星座


『天文学大全』はギリシア語で『メガレ・シンタクシス』という題名でしたが、

アラビア語に翻訳されて『アルマゲスト』とよばれ、これがヨーロッパに

逆輸入され『アルマゲスト』の方が有名になったそうです。天文学大全という

名前の通り、この本は古代天文学の集大成であり、いわゆる「天動説」を確立

するものでもあったと思います。後に、コペルニクスやガリレオが出て地動説が

提唱されるまで、この考え方は、聖書キリスト教の教えと結びついて、西洋の

思想・学問・・生活を支配するものになっていったことのようです。


 この間、星座の数は、増えもせず減ったりもせず、名前も変わらず、プトレマ

イオスの星座がずっと使われ続けたそうです。16世紀まで1500年間もずっと

同じ形で使われたと思います。そして、この48星座の47個までが、今も私た

ちが使っている星座で、この48星座は「古代48星座」または「トレミー(プトレ

マイオス)の48星座」と呼ばれているようです。




3、近代の新設星座

 あっという間に1500過ぎ、時代は近世になるそうで、近世になって、主に

2つの理由で、新しい星座がどんどん追加されているようです。


 ひとつは、暗い星が観測され、望遠鏡の発明などに伴って、空のどの部分にも

目が向けられるようになっていったことのようです。じつはプトレマイオスの星座は

明るい星のない目立たないところはどの星座にも属さない「空白の部分」があった

と思います。それでは、天体観測には不便です。これが一つ目の理由のようです。


 二つ目の理由は、1420年頃から1620年ごろにかけて繰り広げられた「大航

海時代」により、それまで、西洋の人たちが行ったことのない低緯度地方、さらに

赤道を超えて南半球に足を運ぶようになったこと。南半球にいくと、北半球では

みられない星がみられない星が見えるようです。船を進めるには星の位置を知

らねばならず、そうした遠洋航海上の必要性からも、これまではなか

った南の新しい星座が必要になってきたのだと思います。

こうして、16世紀の半ばから、約300年間、新しい星座をつくるといった動きが

天文学者や、星図・天球儀をつくるひとたちにによって盛んにおこなわれるように

なっていったと思います。



(1)チコ・ブラーエ

 新星座を作り出した最初の人は、16世紀に活躍したチコ・ブラーエです。チコ

は惑星の位置とその変化を精密に観測した人で、その貴重な資料を使って後

に、惑星の動きを研究したのが弟子のケプラーのようです。チコは1572年にチコの

新星を発見するなど、多くの功績を持っているそうですが、星座の歴史の上では、

ヒッパルコルスが、つくりながらプトレマイオスは48星座の中に入れなかった

「かみのけ座」を復活させた人のようです。



(2)バイエル(バイヤー)

 ヨ―ハン・バイヤー(1572~1625)はドイツ南部バイエルンの農村に生まれた弁護士のよう

ですが、アマチュア天文家としても活躍したそうです。彼は、『ウラノメトリア,1603』を31歳で

出版し、現在まで名を残しているそうです。『ウラノメトリア』は、プトレマイオスの48星座に、

南の星座12個を追加し、全天1709星の星を描いた51枚の星図のようです。


          また次回おたのしみに   峰不二子






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